結局、その日はホテルに戻った。
ベッドに寝転がり、煙草をくゆらせながら、まんじりとしない時間を費やす。
とりとめのない考えが頭を過ぎり、消えてゆき。
しまいには堂々巡りになって、とうとう全てを放り出して。
そうしてサイドボードの上に置いた灰皿を、吸殻で満杯にした頃、ようやく、ブラインドを閉め
た窓から、陽光が洩れていることに気付く。
「…いつの間に」
半身を起こし、呟いた声も掠れきっている。まぎれもなく、吸い過ぎだった。
途端に肺で暴れ出した、部屋中に充満する煙に咳き込む。
何とか立ち上がった俺は、カーテンを引いてブラインドを上げ、窓を開け放った。
眩しい光と冷たい風が一気に滑り込んで、室内と身体に浸透する。
朝に、なっていた。
この時刻に俯瞰で見ると、村の美しさが、よりいっそうはっきりと分かる。
眼下に広がった、さまざまな緑の色。
優しい、石造りの町並。
大人、子供、男、女、夫婦、老人…静かな村に住む人々の、昔から決して変わることのない、朝
の訪れ、一日の始まり。
「奴には、似合わねぇ景色だな」
俺にも、と付け加えられるかもしれないが。
声にならない言葉の代わり、苦笑を残し、窓から離れる。洗面所で顔を洗うと、無駄なニコチン
で濁った頭も、次第に覚醒してきた。
鏡に、自分が映る。
目に光が戻っていると、女は言った。そして俺は、これまで生きてきた月日を、そうしてきた理
由を、全て否定してしまった。
奴を忘れるために、生きてきた三年を。
…だから、もう。
「…くそっ!」
不意に噴き出した感情に、表情が歪む。
強く鏡を打ちつけた拳に痺れが伝わり、ひどい眩暈を覚え。そのまま力が抜けた後も、しばらく
の間、俺はその場から動けないでいた。
振り返れば、引き返せなくなった自分を嘲笑う、怪盗がいるような錯覚。
どこだ、どこにいる。
あの男はどこで、全てを理解したように、笑っているんだ。
「ちくしょう、人を振り回しやがって…」
かきむしられるような、胸の痛み。何も掴めないもどかしさを振り払って、傍らのタオルで、乱
暴に水滴を拭った。
替えのシャツを身につけ、手早く用意を済ませる。
そういえば、1階のレストランに行くのさえも億劫で、昨日からコーヒーと煙草以外、口にして
いなかったが、未だに空腹感はない。
俺はドアを後ろ手に閉めて、溜息を吐く。
『JUNK』とやらに向かう途中にも、適当な店はあるだろう。今は一秒でも早く、奴の足取り
を追わねばならないのだ。
『おはよう』
『おはようございます。…お客様、あまり眠れませんでしたか?』
エントランスに降り、フロントの係に差し出すと、挨拶と共に気遣わしげな言葉をかけられ、内
心慌ててしまう。
『ははっ、そうなんだ。考えごとをしているうちに朝になってしまった』
『失礼ですが、顔色がお悪いようです。もう少しお休みになった方がよろしいのでは?』
いや、と俺は笑んでかぶりを振った
『これくらい何ともないさ。それより、訊きたいことがあるんだが』
ポケットから手帳を取り出し、住所を書き留めたページを開いた。それを、受付のガラスカウン
ターに置くと、
『用があってね。ここからだと、車の方がいいのかな』
フロントの男は、示された住所を見ると、顔を上げて微笑した。
『この周辺なら徒歩の方が動きやすいですよ。綺麗な村が多いので、散策をお勧めします。
途中の町で、車を止めると良い。詳しい地図をお貸ししましょう』
ありがたい申し出に、甘える。彼が取りに向かっている間に、腕の時計に目をやると、朝の九時
をとうに回っていた。
手渡された地図を片手に、帽子を被り。それでは、とホテルを出ようとドアを開ける間際に、フ
ロントから声がかかった。
『良い旅を』
旅行者に向ける、暖かい言葉。
けれど今の自分には、どこか苦く響く言葉。
『ありがとう』
笑顔で応えながら、思った。
これが、旅ならば。
何を、求めている旅なのだろう。
この旅の先に待っているものは、何なのだろう。


奴の歩いてきた道程を、辿ること。
救いに、なるのか。
絶望に、なるのか。
流れる時間、世界に満たされてゆく光。
俺は、あまりに穏やかな、自殺行為をしているのかもしれない。






勧められた通り、車で村を出る。町の駐車場に止めてから、地図を頼りに、道路を一時間ほど歩
くと、メモに書き留めた村に、着く。
見上げた空、陽は遥か中天にある。
柔らかな雰囲気は、先程までいた村と、変わらない。とはいえ、とてもこじんまりとしているの
で、ホテルの類もないようだ。
さらさらと音を立てて水を流す、水車小屋。それを横目に、楽しげに談笑を交わす人々や、すれ
違う石畳を歩く人々の顔にさえ、目を走らせた。
近くにあったカフェで、軽い昼食を摂り、俺はその足で、修理屋へと向かった。
観光コースになるのだろう、石畳の広い歩道を外れると、森の間を縫うように作られた、細い道
へと出る。幾許かの不安と、緊張。
しかし、その感情とは裏腹、射し込んで来る陽の光が、美しい模様に彩られた、むきだしの土を
歩いていくうちに、五分とかからずに、建物が見えてくる。
そのまま近付いていき、目の前にしたところで歩みを止める。
「…ここ、か?」
赤茶色の煉瓦で造られた家だ。茶色の屋根から突き出た煙突から、黒い煙が絶えず昇っている。
店の前は、いろいろな家具が置かれていた。一周してみると、テーブル、椅子、電化製品。自転
車もあれば、車のタイヤまで。
中にはどう修理しても、再び使用することは難しいと思われるものも、多々ある。
…つまり、文字通りがらくたか。
間違いない。ここが、あの青年の言った、ルパンの待つ店だろう。
『JUNK』と彫り込まれたプレートが、少し傾き気味に取り付けられた扉を開けると、ベルの
涼やかな音色が、響く。俺は失礼、と言いながら店内へと踏み入った。


『…いらっしゃい、今日は何を修理して欲しい?』


低い声と染み入る暖かさに、出迎えられる。
中は、薄暗かった。天井にひとつ灯った、くすんだ色の電球に、白い埃が浮かび上がる。
暗さに慣れてくると、家具や道具も、ぼんやりとした光のもと、処狭しと置かれているのが、分
かってくる。
誰も妨げられない、眠りについているのかもしれない。役目を果たしたものは、どこか不思議な
雰囲気を漂わせていた。
入口に立ち尽くしたきり、しばらくの周囲を見回していた俺は、もう一度声をかけられて、我に
返る。
『すまない。こういうのを見なくなって久しいから、懐かしくてな』
『ただのがらくたに、そんなに興味があるのかい』
店の右奥、三方を囲む木のカウンターの向こうに腰を下ろす、店主に歩んでいきながら、俺はあ
あ、と笑った。
『嫌いじゃないな、こういうのは』
『おかしな人だねぇ』
暖炉に木をくべ終え、読んでいた新聞を広げ直した男は、顎と鼻を覆う白い髭を指で撫でつけ、
不意にこちらに目を向けた。
年齢は俺よりも、かなり上だろう。いくつもの皺が刻まれているものの、彫りの深い容貌だと一
目見て感じる。チェックの柄のシャツに、洗いすぎて薄くなったと窺える、緑のつなぎ。
すっかり白くなった髪は、手入れせずに伸ばしたまま、といった様子だ。
切っていない前髪の隙間から、相手を観察するまなざしを覗かせた店主は、ロッキングチェアー
を軋ませて、ふたたび口を開く。
『英語が、妙に流暢だな。見かけない顔だが、観光客か?』
『そうでもない。三年振りに故郷を離れたんだが、その間使わないでいたら、結構忘れてしまっ
たよ』
『へぇ。観光で、こんな辺鄙なところまで来たのかね』
本当におかしな人だ、と続けるのに静かにかぶりを振ると、写真を取り出して男の前に滑らせた。
『違うんだ。二三、訊きたいことがあって、ここに…』
だがそこで、俺は言葉を途切らせる。
ぱち、と木の爆ぜる音に思わず顔を上げた眼に、室内のおぼろな光に、何かがきらめくのが映っ
たからだ。
それは暖炉の上に何気なく放られた、店には不似合いなほど、美しい指輪だった。
店主の訝しげな問いも無視して、俺は半ば魅入られるように、カウンターに身を乗り出し、転が
った指輪を、手に掴む。
『な、何だいいきなり』
「この指輪、どこかで…」
複雑な文様が彫られた、シルバーの環。丸い台に嵌め込まれた、深く強い蒼色の石は、存在を主
張するように艶めいた。
その石が、かのツタンカーメンの腕輪にも使われた、ラピスラズリだと思い出した時、長い時間
に風化しかけた記憶が、突然砂の中から、掘り起こされた。
モノクロの一場面は、みるみるうちに色を得ていく。
『待て、ルパン!』
『待てないよ、捕まっちゃうもの』
ふわりと闇に舞う、ハングライダー。伸ばした腕からすり抜け、伸ばした掌を容赦なく払った怪
盗は手に入れたものをかざして、不敵に笑い。
そして、歌うように言葉を紡いだのだ。



『この指輪は、深く昏い真夜中の蒼を閉じ込めているんだ。永遠に明けることのない闇をね。
まさにこの俺に、ぴったりだろう?』


指に嵌められた、瑠璃の指輪。
そうだ。
闇に舞いながら、勝ち誇ったルパンがかざしていたのは。
確かに、この指輪だった。
「これは…『エターナル・ミッドナイトブルー』じゃないか!」
『…あ、あんた、指輪の名前を知っているのか?』
『知っているも何も、これは盗品だ!』
叫んで、広げた新聞を取り上げると、血相を変えた俺に後ずさりしかけている店主の胸倉を、ぐ
いとばかりに掴んだ。
『ルパン三世という泥棒を知っているか?俺にはパスポートが必要ないなどと抜かして世界を駆
け回る、図々しい男だ。俺はずっと、奴を追っている』
驚いたように目を丸くした男を睨んで、続ける。
『それでこいつはな、昔、ルパンが盗んだものだ。俺は奴の盗んだものは絶対に忘れないから、
間違いねぇ。何故この店に、ルパンの盗んだ指輪がある?』
納得のいく説明を聞くまでは、動かないつもりだった。少し狼狽した店主は、だがすぐに平静を
取り戻したのか、
不快げに眉をしかめた。
『落ち着きなよ。…じゃああんたが、銭形警部なのかい?』
英語の中に、自分の名前を聞き取って、今度は俺が驚く番だった。
シャツを掴んでいた手を離すと、彼は憮然としたように、椅子に身を沈め、襟を正した。
『俺の名を、知っているのか?』
『その写真に映った男なら、この間店に来たよ。指輪を置いていったんだ』
『…何のために』
『伝言を頼まれてな。この指輪が何なのか分かる男が、近いうちに現れるだろうから、そいつが
来たら伝えてくれ、ってな』
また、伝言か!
掌に収まった指輪を、強く握りしめる。
気配だけを、残し。
前を歩いていく、背だけを見せ、ルパンはまた、全てをさらけようとしない。
何がしたいんだ?
それとも虚像で振り回すだけ振り回しておきながら、やはり奴はどこにも、いないのか?
ああ、何より理解らないのは、この俺自身だ。
三年前のあの日、確かに、ルパンの死を望んだはず。
今、俺はあの男が生きていることをこんなにも望み、姿がないことに、こんなにも苛立っている。
『あんたの親友だったのかい?』
店主が、煙草に火を点けながら問うてきた。立ち込める強い匂いに、記憶がある。どのメーカー
だったろうかと、頭の隅で思う。
『まさか。奴には、これまで裏切られてばかりだった。三年も音沙汰がなかったと思ったら、こ
うして人が苦しむのを見て、楽しんでやがるんだ』
『…分からねぇなぁ』
店主は、口許に苦りきった笑みをのぼらせると、節くれ立った太い指を、俺に向けて突きつけた。
『そんなに裏切られてばかりだってのに、あんたは、ここまで追いかけてきちまったのかい。嫌
なら止めればいいじゃないか』
俺は一瞬、返す言葉を失う。
裏切られる、ということ自体は、俺とルパンが敵対する立場である以上、避けられないものだ。
だが、俺はいつだって、追う足を止められた。
追うのを諦め、引き返すことも。
けれど、そうすることは出来なかった。
何度裏切られても。
この手に、掴めなくても。
『それでも、追わねばならなかったからだ』
可笑しいなら、いっそ笑って欲しい。
しかし存外に真面目な表情に、仰がれる。人生に訪れる、幾つもの困難を潜り抜けたと感じさせ
る、暗い輝きを秘めた鳶色の瞳。  
『銭形さん。あの男が残したのは、たった一言だ。来ないかもしれない、と前置きしてな』
『…気休めはいらんよ』
こうして、訪れてしまったのだから。
溜息を吐き、短くなった煙草を灰皿に捻じ込んだ男は、口を開いた。
『…「あんたさえ望めば、俺は『地の果て』にいる」』
聴き慣れない、言葉だった。
地の果て、と呼ばれる場所があるのだろうか。ルパンは、俺が「望めば」、そこにいるという。
怪訝そうな顔を見せると、店主はこの村から出な、と投げやりに言った。
『この国を東に下り切った先に、そう呼ばれる岬がある。孤独な処だ』
孤独。
ルパンに出会ってから、この二文字はずっと、この身体に重い影を落としてきた。
闇を抱いていても、それを思わせない輝きに惹かれて、ルパンの周囲には仲間が集まる。絶対に
裏切らない、仲間が。
俺の友は、奴の素顔を見ながらも、救われた恩を裏切らず、決して真実を話そうとしなかった。
けれども奴は、自分が独りだとうそぶく。
そして俺は、一番近くに辿りついてしまったがゆえに、孤独になったのだ。
『…いつだって独りさ、俺は』
踵を返し、ドアに指をかけた背に、その時密やかな呟きが落ちた。



『あいつには、あんたが必要なんだ』



『…今、何と?』
聞き取れずに振り向くと、『JUNK』の店主は、笑んだ。カウンターから出、俺の背中を押す
ようにして店から送り出す。
『早く行きな。捜してきたものが、見つかるかもしれない』
涼やかな鈴の音を響かせて、ドアが閉まり。
指輪を握りしめたまま、佇む俺を、薄暗くなってきた空が静かに見下ろしていた。
多分、時間はなかった。



太陽が沈む前に、向かわなければ。
奴の待つ、『地の果て』へと。






国の東、そして最果て。
――その岬は、静寂のうちにあった。
車から降りると、背後では西の空、眠りにつこうとする太陽の黄昏の色が、波紋のように広がっ
ていた。
橙は、緩やかに移ろい、鴎を泳がせる、澄んだ青い海は、深い群青の深海へと、変わりゆく。
ごつごつとした岩と、絶えず聞こえる波の音。人影は、ない。
俺は、冷たい蒼の気配に満たされた地を、ゆっくりと踏みしめていきながら、口を開いた。
「ルパン!」
声は、一瞬だけ岬に響いて、やがて消える。この名前を、呼びかけとして言葉にするのも、三年
振りだった。
応えるのは、音を立てて吹き荒ぶ風だけ。また、あの男はいないのかもしれない、という予感が
脳裏を過ぎった。
不安を消すように、俺は大声を出す。
「いるなら返事をしろ。何がしたいのか分からんが、お前の望み通り、罠に飛び込んでやったん
だ。そろそろ、姿を見せたらどうなんだ!」
そうだ。
これは、ルパンの望みだ。決して俺の、望みなどではない。
だが、だとしたら。
何故あの男の望みを叶える為に、この場所に来てしまったのか。
…何故俺は、ここにいる?



怪盗を捜して、風の流れに誘われるうち、いつしか俺は、岬の突端へと、足を向けていた。
灰色の、海。青い世界の中、その色はいっそう昏く、深かった。絶え間なく寄せる波は、崖で弾
けて、阻まれる。
まるで、俺のようだと思った。走って、追って、失敗して。いつも、何かに阻まれてきた俺のよ
うではないか。
今回も、そうなのか。
「…無駄足か…」
見つからないのなら、長居は無用だった。と、去ろうとして踵を返した俺の靴に、唐突に、固い
感触が、当たった。
見下ろすと地面に、岬にはそぐわないものが、落ちていた。
拾い上げると、それはレコーダーだった。一体何年物なのか。代わり映えのない、テープレコー
ダーである。中を開くまでもなく、テープが入っているのが見えた。
ルパンが、置いていったのかもしれない。何かを伝えようとして。からかいか、恨みか、それと
も違う感情か。
ここまで来たからには、最後まで奴のやることに付き合うつもりだった。俺は心を決めて、再生
ボタンを、押した。
『――よう、銭さん』
しばしの沈黙の後、微かなノイズと共に、レコーダーは、声を吐き出す。あの島の言葉を交わし
た、三年前と何も変わらない、明るい口調。
『あんたがこれを聞いているとしたら、不二子のお誘いを拒まなかったということだよな。…久
し振りだね、元気にしてた?』
「ルパン…」
何が元気にしてた、だ。
長年出会っていない、親友へでも向けているつもりなのか。俺は、本気でお前を殺そうとした男
なのに。
だが次いだ言葉は、それを見透かした。
『あんたは勘が良いから、俺が全てを知ってあの罠に入ったということに気付いていると思う。
こんな挨拶から始まって呆れたかい。もっと他に言うことがあるだろう、って苦い顔をしている
のが、目に浮かぶよ』
深い灰色の海が、名残の光を照り返してまばゆく。岬の先端に佇む俺の身体に、蒼い風が吹きつ
けて、コートがはためいた。
全てが荒涼とした、世界の果て。
その寒さに、俺は左腕で、自分の肩を抱いた。
『実際、憎んではいないんだ。俺とあんたの間では、命を賭けた駆け引きも許されるもの。銭さ
ん、あんたが俺を罠にはめて、俺を殺そうとしたところで、一向に構いやしなかった』
だから言っただろう、不二子。
俺と奴の間には、優しい感情など、存在しないんだ。
『でも俺は、こうして生き延びちまった。間一髪だったよ。それで、やっぱり手痛いプレゼント
をされたからには、こっちもお返しをしなきゃいけないと思ってね。ひとつ、試してみることに
したんだ』
一拍だけ置いて、男はさも楽しげに、けれども冷ややかに、続けた。


『長い月日が経った時――あんたは、俺の誘いに乗るかどうか』


今、この男は何と言った?
動揺する俺を嘲笑うよう、声を流すことを命じられた機械は、忠実に、言葉を再現してゆく。
気が遠くなるような年月を物語る、溜息さえも。
『ずっと、待った。銭さんが、俺のことを忘れようとすることは、解っていたから。敢えて、姿
も声も、何もかも、あんたの前に見せなかったんだ。一年、二年、三年…そうさ、あんたが俺の
存在を、忘却の廃墟に追いやる前に、より強く思い出させる為に』
足元が、おぼつかない。
気を抜けば、崩れ落ちてしまいそうだった。その重い思いに、俺は息をすることを、忘れた。
この男は、回るテープの向こう、遠くない過去から、俺がひたすらに忘れようとした、心の奥底
にある何かを、引きずりだそうとしている。
知りたくない。解りたくない。
だが、停止ボタンを押すことが出来ない。全てを否定されると知りながら、俺は海に流れ出す声
を止められなかった。
『…忘れることは許さないよ、銭さん』
テープは、終わりが近いことを告げていた。終わらない声が、微かに震えているのは、ノイズの
ためか、他の理由か。
どうして、そんなことが言える。
人生の歯車を狂わせた男を、憎み。
追い続け、追い続け、俺はその果てに、お前を目の前から消そうとした。
俺には、お前の無二の相棒や、仲間が抱く感情は、どこにもないんだ。
お前にとって、真実を暴こうとした俺の存在は、枷としかならなかった筈だ。
再び会ったところで、互いに苦しめあうことしか出来まい。
なのに、なのに。
どうしてお前は、俺を望む?覚えていることを、求める?
俺は、お前の存在など、一度たりとも。
『望まなかったなんて、言わせないぜ。現にあんたは、伝言を伝って、地の果てに辿りついた』
全てを見通して、怪盗は現実を突きつけた。
締めくくるように、ルパンは息を吐いて。その名残と共に、言った。
『――あんたは一生、俺を追い続けるんだ』
それが、最後だった。
テープは、それが回されていた時間の時計を止めて、そうして岬には、再び沈黙が戻った。
その、残酷なほどに、冷たい判決に。
俺は名付けられなかった思いを、理解してしまった。
気付いてしまった。
気付かなければ良かった。
絶えず、心にあった想いに。
お前をずっと、追い続けてきた理由に。
俺は。



俺、は。


ぽつり、と微かな音が聞こえた。
音のした方を見ると、レコーダーに、透明の滴が、零れて広がっていた。
テープレコーダーに落ちた滴を、最初は雨だと思った。
けれど、空を仰ぐと、雨は降っていなかった。
頬が、熱いと思った。
指で触ると、濡れていた。
それでようやく、自分は泣いているのだと、思った。
俺は、泣いているのだ。
「…あ…」
零れた声が、掠れる。
駄目だ。
駄目なんだ。
言葉にしてはならない。
言葉にしてしまったら。
声に出してしまったら。
器官を震わせてしまったら。
この身体が、認めてしまう。
たとえ、心が認めていなくても。
たとえ、心の中にあった想いだとしても。
たとえ、出会った時から解りきっていたことだとしても。
それを、認めたら。
「…くそぉ…っ」
封じてきた叫びが、眦から溢れだす。
蒼の色が飛び込んでくる視界、見開いたそれが、次第に滲んでくる。
茜もオレンジも朱も飲み込んで、侵食していく孤独の色。
あの中に、届いてしまう。
孤独の中に、あの男を見つけてしまう。
違うのに。
こんな結末など、望んじゃいなかったのに!
「俺、は…っ」
けれど。
最後の抵抗をする俺の耳元に、冷ややかな宣告がこだまする。
『忘れることは、許さない』。
お前は初めから、解っていたのか。
だからあえて、俺自身に、気付かせようとしたのか。
お前を憎む、と言い切った俺の心にあった、理由を。
追い続けることしか出来なかった、理由を。
俺は、解っていたんだ。
そうしなければ、ならなかったことを。
そうしなければならないことを、理解していたんだ。
何故なら、俺は――






「俺は…っ、お前を見失ったら、どこにも行けないんだ…っ!」





音を立てて、レコーダーが掌から落ちる。
膝が崩れた。
地面に両手を突く。
噛みしめた唇から、嗚咽が洩れる。
止まることを知らないよう、流れてくる涙が、何の感情から来るものなのかも分からぬまま、俺
は声も上げられずに慟哭した。






やがて地の涯が、限りない蒼に満たされても、ずっと。









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