「地の果ては限りなく蒼く」

柊けいこ様・作








1  空虚を、失うために。



「相変わらず、腑抜けているようだね」
背後からかかった声に、闇空を仰いでいた視線を、滑らせる。振り返った先には、呆れた様子で
佇んだ、黒のスーツを身につける美しい女の姿があった。
サングラスを外すと、貫くような鋭さのある、切れ長の瞳があらわになる。
街灯の光に、漆黒の髪が艶めいた。
「立ち姿に、覇気がないよ」
明らかに自分を知っている口ぶりに、しかし最初は、誰なのか思い当たらなかった。皮肉を言わ
れる程親しくはないように思えたのだ。
とはいえ、その皮肉めいた表情に、俺はふと、見知った女の面影を見つけた。もしやと思い、三
年前、共に芝居を演じた女性の名を口にする。
「まさか…銀蝿か?」
「我ながら、おかしな名前をつけたものだね」
恐る恐る訊ねるのに、女は初めて笑った。
分かってみれば、変装を解いた今の容貌に似合わない口調も、聞き覚えがあった。夜空の下、果
たされた再会に複雑なものを感じながらも、改めて向き直る。
「呼び出したのは、お前だったのか」
「久し振りというべきかな、銭形さん。まだあなたの記憶に残っていて、安心したよ。突然の手
紙、さぞ驚いた…」
「挨拶はいらんよ、用件を聞こう。どうして、俺を呼んだ?」
続こうとした言葉を遮って、女を見据える。
冷えた空気を含む風は、規則正しく植えられた緑をざわめかせて、咥えた煙草の紫煙を闇へとさ
らっていった。
…忘れない。
おそらく、この先も忘れることは有り得ないのだ。
自分を過去に縛りつける、あの記憶だけは。


警視庁に届いた、一通の文書。
あて先に、俺の名前を書いた手紙を差し出したのは、三年前、短期間ではあるが所属した機関で
あった。無機質の文字が打たれた文面は、「重要な事実を報せたい」というような内容で、末尾
には都内の公園の住所と、一週間後の日時が記されていた。
そして俺は、12時という遅い時間の理由も、あえて自分を選んだ意図も計りかねたまま、今日こ
こへと、やってきたのだった。
「今更だと、思っているだろうね」
女は、俺と10メートル程間を空け、足を止める。偶然か、それともこの機関が人払いをしている
のかは判断がつかないが、公園内には俺達の他、誰もいなかった。
「…ああ」
「気にしないでいい、私も同じなんだ。今回のことも、何故今頃になって情報が入ってきたのか
分からないし、あなたに伝えるべきかどうかも迷った」
脳裏を過ぎったのは、かの怪盗の姿だった。
焼きついた、爆発の瞬間。すれ違う時に見せた、全てを理解した笑み。仕組まれた計画だと悟り
ながら、それでも罠へ赴いた男。
はたして、抱いた予感は裏切られなかった。女はスーツの胸ポケットから、メモ帳ほどの紙片を
取り出すと、言った。

「腑抜けたあなたを復活させる一報だよ、警部。ルパン三世を発見したという知らせが、うちに
入ってきた」

宣告を見守るのは、漆黒の空に凍りついた白い月と、公園をおぼろに照らす、人工の光。
錆びついた短針は、音を立ててゆっくりと動く。三年の月日、自分自身の手で止めていた時計が
再び、時を刻み始めたような気がした。
驚きも悔しさも、やはり感じない。
代わりに胸に湧き起こった感情は、おそらく目の前にいる女を、怒らせるものに違いなかったの
で、俺は自嘲の笑みを、心中で浮かべた。
「…奴が、生きていると?」
「そういうこと。定かではないけれど、もし事実だとしたら、本当にしぶとい坊やだよ」
よく手入れされた、緑の黒髪をかき上げ、苦笑する。そういえば、変装で大柄の女性に見せてい
た時、彼女はルパンを「坊や」と揶揄していたことを思い出す。
吸殻を携帯の灰皿に入れ、銀蝿、と偽名を呼んだ。機関自体が知られていない存在で、短期間の
所属は特別の計らいだったらしい。
そのためか、俺は全てが終わった後も、本当の名前は教えられなかったのだ。
煙草を唇に挟み、火を点けた女が顔を上げた。茶がかかった、深い色の瞳。静かなまなざしを返
すように、問いかける。
「追うのか」
「…あなたも、よく分からない男だね」
溜息をつかれることは、予測した。ただ、そのあと止めた歩を進め、開いた距離を縮めてくるこ
とまでは、予想出来なかった。
手を伸ばさずとも、触れられるところまで歩んでくる。困惑に身を引きかけた俺の口に、女は自
分の吸っていた煙草を、咥えさせた。
微かな香水の匂い。軽いのだろう、さほど強くない煙の香りが、鼻腔をくすぐった。
「あなたは、何を望んでいる?」
全くだ、と思う。
俺は怪盗を追うことから、逃れたかったはずだ。しかしどこかでは、違うことを願っていたのか
もしれない。その答えは、喉元にさえ出てこなかったが。
応えない俺に、刺すような視線が向けられる。
「どうやら、あの機関に入った理由を忘れてしまったようだね。あなたは、ルパンの死を求めて
いた。計画に参加させて欲しいと、自分で決着したいと嘆願したから、私達も了承した。それな
のに、随分嬉しそうじゃないの」
「…馬鹿を言うな、嬉しいものか」
「それは嘘」
見透かされていた。
短い沈黙を終え、女は引き結んだ唇を、笑みの形に吊り上げた。美しさと相まって、その微笑は
ひどく艶やかだった。
栗色の髪と、琥珀色の瞳を持つ女…峰不二子のそれと、重なる。
ただ、実際に目の前にいるのは、決してあの女ではない。黒髪と、同じ色の瞳を持つ女は、微笑
んだまま、言葉を紡いだ。
「この三年、満たされないまま生きてきた?」
「…俺は、」
「あなたの目に、光が戻っている」
生きる意味を与えられたから、と続いた囁きは、少なからず俺を動揺させた。
生きる意義を今、与えられたのだとしたら、今まで俺の中には、何が存在していたのだろう。
追い続けたあの男をこの手で消して、手にしたものは何だったのだろう。
…いや、得たものの名を、俺は知っているのだ。
「…満たされない、か。そうだな。全く、馬鹿げたことだ。島の起爆スイッチを押したのは、他
ならない俺自身だった。
なのにこの三年間、どうやって生きてきたか、覚えていないんだ」
「銭形さん」
「ルパンを追うことで、何も失いはしなかった」
震えそうになる声を、必死に押し隠す。
「代わりに、空虚を手に入れた。だがそれは、本当は失われるべきものなんだ。だから俺は、ル
パン三世を追わねばならない」
届かないと自覚しながら、怪盗の背を追う日々。
その枷から逃れたかったがために、決着をつけようとした。
しかし、最後に勝ったのは俺ではなく、奴の方だった。それなら…負けたのならば、今度は、勝
たなければならないのだ。
「あの男に、会いたいと?」
「会わなければならないんだ」
「…憎まれているとしてもかい?」
「構わん。初めから、奴との間には優しい感情などない」
手渡されたメモには、国の名前と、地名らしき場所が書かれていた。この国なら、朝早くに飛行
機で発てば、正午には着くだろう。
「優しい感情、ね…」
呟く声は、変わらない。
しかし女の呟く声に、俺は何故か、違和感を覚えた。
「…銀蝿?」
「互いに傷つくのを知りながら、想いが枷になると悟りながら…それでも貴方達は、その道を選
ぼうとするのね」
意味を訊き返す前に、口から根元しか残っていない煙草取られる。地面に落とされるのに、
非難の声を上げる間もなく、タイが引き寄せられた。
冷たい感触が、自分の唇に触れる。
ほんの一瞬だけの口吻けののち、顔が離れた。彫刻のような容貌は、先程と、変わらないもので
あったが、俺はなかば、確信を抱いていた。
「まさか、お前…」
「真実は、いずれ解るわ。私に教えられるのは、枷となる存在を求めているのは、貴方だけでは
ないということだけ」
問いを拒んだ女の身体が、ゆっくりと距離を置いた。街灯の下、立ち尽くした俺に一瞥を残して
踵を返す。その、遠ざかる背に、俺は叫んだ。
「不二子!」
今にも闇に溶けてゆこうとする女は、肩越しに振り返る。自信に満ち溢れた微笑を唇に刻んで、
言った。






「お行きなさい、警部。仕組まれた罠に、彼のように飛び込む勇気があるのなら」










  

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